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FIRE

諦める勇気…それは他人が決めること?

こんにちは。ケイザキです。

先日、私の会社のある人が言っていた言葉にふとした疑問を持ちました。

それが

諦める勇気

私にはいまだによく理解ができていません。

だから、これから間違ったことを言うかもしれません。

まあ個人のブログなので、感じ方は人それぞれですね。

さて、ある先輩社員が後輩社員に言った一言、諦める勇気を持たないと。

後輩社員には自分が叶えたい夢があり、接した限り先輩社員には夢と呼べるようなものは見当たりません。

もっと詳しく言えば、理想はあってもそこに向かうことはしない。

そう言った感じです。

今の現実、会社にひかれたレールにただ毎日揺られているだけ。

査定が上がるような努力だとか、職場内で改善できることに取り組むわけでもなくただひたすら普通です。

話の内容も、コロナや家で見たテレビもしくはパチンコの話。

一方、後輩社員は夢のために休み時間も作業をしたり、家に帰ると調べ物や作業をしているそうです。

もちろん、仕事に支障が出てはいけません。

辞めるまではきちんと責任を果たす必要があると私は思っていますし、彼もきちんと勤め上げています。

そんな対極にいると言っても過言ではない二人が話していた会話。

後輩は夢を語り、先輩は夢を否定し会社という安定を語る。

まあ良くある形ですよね。

私の会社はそこそこの規模があり、年収もそこそこです。

だからこそ、特に地元採用の人は強く会社に執着する傾向があります。

今回の先輩社員はまさしくその典型例と言ってっも過言ではありません。

話は戻して、諦める勇気。

あなたはどう感じました?

後輩の夢はまさしく不安全なもの。

先輩の言うことはこの国では安定的で正論。

あなたはどちらに共感しますか?

自分の限界を知りたいし、お金持ちになりたい、挑戦し続ける人生を送りたいと願う後輩社員。

はたまた、安定こそが正義であると大義を掲げる先輩。

正直、私はどちらの言うこともわかります。

先輩の言っていることを正しいと思っていた過去もあるし、青天井な環境で自分の限界に挑戦したいと今は感じているからです。

でも、だからと言って過去の考えが間違っているなんて思ってません。

私の場合はこう変化したけど、それは万人に共有するためではなく自分の未来をこうしたいと言うビジョンがあるからです。

他の人に異なるビジョンがあることは普通だし、おかしなことではありません。

だからこそ引っかかったのが『諦める勇気』を持てといった言葉です。

果たしてそれは勇気なのか。

後輩が夢を諦めなければいけないとなぜこの人は言い切るのか。

私には疑問でした。

先輩は地元採用で、『この会社こそが全て』といった思想を持っていることは先述した通りです。

しかし後輩は地元採用でもなく、この会社で定年を迎えることを”夢”と思ってはいないのです。

確かに安定した収入を得ると言うことは、先輩が知っている世界では現状維持のままでしょう。

しかし後輩は違うのです。

夢のためにコミュニティを見つけ、すでに収益も出始めている。

それを諦めろと言う権利はあるのでしょうか?

夢という言葉は、子供の頃はみんな声に出しますが大人になって声をあげていう人は少なくなりますよね。

会社という柵の中の現実で満足してしまおうとする、ある意味現実逃避を言い訳にして、夢という言葉を否定し現実的な目標で生活するようになります。

お菓子屋さんになりたかった子どもが、大人になったら仕事の合間にケーキを作る。

その人が『夢はお菓子屋さんになること』といったら少し違和感を感じますか?

いやいや、今の会社より稼げないかもしれないのに絶対今のままがいいよ。

そう思う人もいますよね。

全ては自由なんです。

でも、そういう前にこうも考えてみてください。

『自分の言葉は、本人のためなのか?本当に本人の話を聞いたのか?他に何と比較しているか具体的に言えるか?』

大事なのはその人の人生を自分が壊していないかをきちんと考えるということ。

極端にいうと、大谷翔平が会社員として働いていて『プロ野球選手になりたい』といったときに、いや、今の会社が安定してるからやめとけ。と言いますか?

これは結果論として大谷翔平選手の凄さを分かっているからこそ、ほとんどの人がプロを薦めると思います。

では逆に、夢を語った人がそうならない確証がない場合は断言という形で否定すべきではない思いませんか?

諦める勇気。

後輩が必ず失敗すると断言できる理由は何か?という提示をしなければ断言という形は矛盾が生まれてきます。

脱サラをして成功してきた人なんて腐るほどいます。

彼が挑戦するというなら、足りないと感じる部分の補助はしても否定まではするべきではないのではないか。

勇気という言葉は果たして適切なのか?

自分の意見を押し通すために、相手にさも足りないものがあるように作話させているのではないか。

それを勇気と呼ぶのは違うと感じます。

勇気は個人が変わるときに必要なもの。

他人がどうこういうことではありません。

ましてや、根拠のない否定を助長するものではないのです。

もう一つ。

先輩社員のような人に多いのが

”自分に出来るはずがない”

という謎な考え方。

なぜあなたが何もできないと断言できるのか?

本当にできるはずがないと考えているのか?

いや

考えることが面倒だから、諦めるための作話をしているんじゃないか?

そう考えたのは、以前の私がそうだったから。

できるはずがない。

特別な才能がない自分が成功するわけない。

そう考えていました。

でも、その夢を成功するための行動を起こしたか?

行動した上で諦めたのか?

多くの場合そうではありませんでした。

考えるのが面倒だったんです。

要は言い訳なんです。

自分がそうだった、でも今は行動して判断をしている。

そうすると、自分が生きている世界の範囲がグンと広がっていくことを感じるはずです。

若いときにしておけばよかった。

そう考えることも少なくはありません。

でも、今日よりも若い日はこれからの人生の中で”絶対に”訪れません。

時間という有限なものは等しく平等です。

では、今日若さを理由に後悔している事は必ず明日以降も後悔が大きくなっていくものです。

だからこのブログでは毎日言っています。

今日が人生の一番若い日。

人生という時間軸の中で、人は無力です。

しかし、有限な時間の中で日本という国は多くの自由を与えてくれています。

自分に出来ることは今が限界か?

まだまだやれるんじゃないか?

諦めるということは、後悔の始まりじゃないか?

自分に問いかけながら様々なジャッジをしていきましょう。

もっとやれる。

じゃあやってやろう。

そう毎日思いながら過ごしています。

あなたもまだまだこんなところで終わるわけがない。

行こう、昨日の自分がたどり着けなかった明日へ。